2019.06.11 Tue
コラム:カフェバー ハリー第1話「週6日の常連客」
文:いしかわあさこBAR TIMES の念願だった、いしかわあさこさんのコラムがスタートします。読むとバーに行きたくなる。そんなお話です。
まもなく二十歳を迎える専門学校生のジュンは、「カフェバー ハリー」を営む夫婦のひとり娘。高校時代から店を手伝っているが、両親の仕事にさほど興味はない。ところが、二十歳を迎えた頃からぼんやりと将来を考え始め、店に訪れる人たちとの交流を通じて徐々に両親の仕事、お酒の世界の魅力に気づいていく。
……ギィッ。
やや重く響くこの音で、店の扉が開いたことがわかる。こんばんは、と母が言うと、私がおしぼりをお客さんの前に差し出す。勝手に身体が動くほど、何度も繰り返された流れだ。
「ジュンちゃん、お花見はした?」
「日曜日に友達としました。大野さんは?」
50代半ばと思われる大野さんは、週に6日ほどこの扉を開ける。店の営業は14時からで、大抵16時前後にやって来て、18時までには帰る。いつも頼むものは決まっていて、ジン・トニック2杯にウイスキーのストレートを1杯。ところがこの前、珍しく19時過ぎに顔を見せた。
その日は早い時間からとても混んでいて、カウンターになんとかひとつ席を見つけられるほどだった。いつもはのんびりと会話を交わすことができるが、そんな時間もない。「ゆっくりでいいよ」と言われたものの、母がジン・トニックを作って私が運ぶ頃には10分近くが経過したような気がした。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「いいんだよ、混んでるからね。ジュンちゃんも学校の後で大変だね」
会話を遮るように、ほかのお客さんからの注文が入る。ジン・フィズ、コスモポリタン、ソルティ・ドッグ。うちの店のソルティ・ドッグはクラシックスタイルだから、全部振りもの(※)だ。さらに、厨房にいる父へナポリタンやカツサンドの注文が飛んでいく。
ジン・トニックを飲み干した大野さんに近づくと、彼は店内を見渡してウイスキーのストレートを注文した。
「えっ、ジン・トニックおかわりじゃなくていいんですか?」
アードベッグ、ラガヴーリンと立て続けに飲むと会計を済ませて、片手を軽く上げた大野さんを慌てて母が見送った。
「なんで大野さんはジン・トニックをおかわりしなかったのかな」
翌日、朝食を食べながら父に言うと、その理由を前から知っていたかのように即答した。
「お店が混んでたからだろう。ウイスキーのストレートなら注ぐだけだから」
長年通い続けているお客は、いつしか自分の店だと勘違いするような振る舞いになることがあるという。どんなわがままでも通ると思ってしまうのだ。でも、大野さんはお客の誰よりも店を気遣い、愛してくれている。
「大野さんみたいな人が通い続けてくださるから、店は畳めないよね」
「……。」
ひとり娘の私に対する微妙なプレッシャーが、母の口からいつも絶妙に放たれる。
いしかわあさこ
東京都出身。飲食業からウイスキー専門誌『Whisky World』の編集を経て、バーとカクテルの専門ライターに。現在は、世界のバーとカクテルトレンドを発信するWEBマガジン『DRINK PLANET』、酒育の会が発行する冊子『Liqul』などに寄稿。編・著書に『The Art of Advanced Cocktail 最先端カクテルの技術』『Standard Cocktails With a Twist~スタンダードカクテルの再構築~』(旭屋出版)『重鎮バーテンダーが紡ぐスタンダード・カクテル』(スタジオタッククリエイティブ)がある。愛犬の名前は、スコットランド・アイラ島の蒸留所が由来の“カリラ”。2019年4月、新刊『バーへ行こう』が発売。
第1話 「週6日の常連客」
第2話 「カウンターに立つ母」
第3話 「二十歳の誕生日」
第4話 「バイオリンの音色が響く夜」
第5話 「バーが繋ぐもの」
第6話 「たくさんの笑顔に囲まれて」