2020.02.7 Fri
BAR TIMES編集部が今注目するTOP BARTENDERBAR GOYA 山﨑 剛さん
第6回[TOP BARTENDER Philosophy]BAR TIMES 編集部TOP BARTENDER Philosophy
バータイムズ編集部が今注目のバーテンダーをご紹介する編集企画「TOP BARTENDER Philosophy」(トップ バーテンダー フィロソフィー)。バーテンダーの仕事とは、カクテルとは、今後のビジョンはなど、トップバーテンダーたちは、どんな思いやこだわりを持って自らを高め、理想に向かって邁進しているのか。普段のカウンター越しでは見られない一面をご紹介いたします。
第46回全国バーテンダー技能競技大会総合優勝。山﨑剛さんが語るこれまでとこれからの自分。
2019年10月27日、日本バーテンダー協会主催「第46回全国バーテンダー技能競技大会」が徳島県で行われ、高知県出身の山﨑剛さんが総合優勝を果した。山﨑さんは、銀座の名バーのひとつ「スタア・バー・ギンザ」で約13年修業を積み、2018年に独立。スタア・バーの山﨑から「日本一のバーテンダー山﨑」と、もうひとつの冠がついた。この栄光に至るまで、どのようなバーテンダー人生を歩んできたのか、山﨑さんに聞いた。
父の影響もあって、高校卒業後は競輪選手を目指していました。思った以上に厳しい世界で、病気にもなり挫折してしまいました。きちんとした仕事を探さないと、と真剣に考えていた矢先、友人から電話があったんです。オレの代わりにバーで働かないかって。聞くと、建築の勉強をしたいのでバイト先のバーを辞めたい。ヒマなら代わりにやってくれないか、という内容でした。とにかく働かなくてはと面接に行き、翌日から働くことになりました。余談ですが、今の店「BAR GOYA」の内装を手がけてくれたのがその友人です(笑)。
元々、モノを発想してつくることが好きだったので、カクテルを自分で考えてつくるという作業はかなり楽しかったですね。そんな時期に、高知の有名バー「フランソワ」の三好さんというバーテンダーが、たまに勤務先の店を手伝いに来てくれていました。僕もきちんとカクテルをつくれるようになりたいと思っていたので、教えてもらうようになったんです。それまで我流だったので有り難かったですし、何より三好さんの仕事ぶりは見ていて本当にかっこよかった。それがバーテンダーになろうと思ったきっかけですね。
最初は、東京で一流の店を垣間見れたら、という気持ちでした。当時、スタア・バー・ギンザの岸さんやオーパの大槻さん、BAR保志の保志さんがすでに活躍されていて、出るなら東京だと心に決めていました。23歳の時でしたね。それで、これまた偶然にも高知にあるイタリアンバール「バッフォーネ」の青野さんというシェフが、岸さんの知り合いだということで紹介状を書いてくださったんです。それで、紹介状を握りしめ、友達から借りたスーツを着ていざスタア・バーへ(笑)。面接した岸さんも、驚いたと思いますよ。だって上京した当初、土木作業のアルバイトをしていたので顔は日焼けで真っ黒、髪は短髪、言葉は土佐弁(笑)。それでも目にしたスタア・バーは凄かった。こんな世界があるんだって感動したのを覚えています。
誰もが憧れるようなバーですからスタッフもたくさんいて、空きができるまでしばらく待つことになりました。3ヶ月、半年……。業を煮やして何度か電話をしてみましたけど、まだ空きがない。もう無理かな、と諦めて別のバーに就職しました。ある日、役者を目指して上京していた先輩が「夢を諦めて高知へ帰る。だから最後にいいバーに行きたい」と言うのでスタア・バーへ一緒に行きました。やっぱりどの店とも違って、キラキラしていて、エネルギーがすごくて。意を決して翌日電話しました、ここで働かせてくださいって。
とにかく忙しいお店で、お客様も怖かったです(笑)。ある日、「お前新入りか。まぁ大変だろうけどな」と声をかけてくださったので、「はい、頑張ります!」って答えると「頑張るなんて当たり障りのない返事をするんじゃない!」って怒られました。
それから約13年。おそらく辞めたいって岸さんに言った回数は、後にも先にも僕が一番多いんじゃないかな(笑)。岸さんや先輩のサポートをしてもいつもうまくいかなくて、人に迷惑をかける、先輩の足を引っ張る、毎日怒られる…。そういう苦しさから逃げ出したくてある時、岸さんに言いました、「人の迷惑にならない仕事を探すので辞めます。自分さえ食べていければそれでいい」って。そうしたら「高知の家族が困った時に誰が支えるんだ。兄妹で男はお前一人だろ。自分だけ食べていければいいなんて、そんな人生でいいのか。もうひと踏ん張りしてみろ」って。有り難いですね。
自分の店を持つって想像以上に大変で、オープン直後からいきなり挫折しました(笑)。まず、スタッフが集まらない。おかげさまで店は忙しいんですが、自分一人しかいないので、準備や買い物、銀行などの用事を済ませるとあっという間に開店時間の夕方4時。しかも、大会の出場も平行してやっていたので、レシピ考案や練習など目が回るほどの忙しさでした。大会出場は無茶なことだと分かっていましたが、店をオープンしたからといってやめたくなかったんです。
忘れもしない今から9年前、築地のファミレスで「技能競技大会に挑戦したい」と岸さんに伝えました。とても重い覚悟が必要で、言ったからにはタイトルをとるまでやめない、あの時そう心に誓ったんです。だからどんなに辛くても挑戦をやめようと思ったことは一度もありません。意を決して岸さんに伝えたんですが、「ああ、そう」みたいな感じで意外と反応が軽くて(笑)。でもすぐに当時日本一に1番近かった耳塚さんを紹介してくださり、大会に向けては惜しみなくバックアップしてくださいました。
自分自身が整っていれば、ベストなパフォーマンスをできれば、必ずいい結果がついてくる。優勝とか、今回はいけるかもしれないと気負わなくなりましたね。全国大会はお披露目会でもあるんです。予選から一年かけてやってきたことを審査員の方や応援に来てくれた方々に見ていただく、それを評価されるだけ。そういう心持ちになることができました。肩の力が抜けて周りが見えるようになったことが優勝につながったと思います。
山﨑さんにとってどのような大会でしたか。
よくスポーツ選手の優勝インタビューで「支えてくれた皆さんのおかげ」って言うじゃないですか。あれ本当にそうだと思うんです。僕の場合、極端に言うと僕の人生に関わってくれたすべての人たちのおかげで今の自分があるし、結果を出せたと思うんです。高知にいた時、僕を身代わりにバーのアルバイトを紹介した友人、カクテルの手ほどきをしてくれたバーテンダーの三好さん、紹介状を書いてくれたシェフの青野さん、再度スタア・バーに足を運ぶきっかけをつくってくれた高知の先輩、岸さんや先輩スタッフ、大会で共に闘った仲間、練習や店の営業を手伝ってくれた家族、そしてお客様。その人たちの顔が次々に浮かんで、やっと実感が湧いた翌日の朝、涙が止まりませんでした。何者でもなかった自分がここまで来られた、やっと皆さんに恩返しができた気持ちです。「ずっと目をかけてきた山﨑くんが、とうとう日本一になったんだよ」ってお客様に言っていただける、それもひとつの恩返しだと思っています。
実は大会の数ヶ月前から念願の茶道を習いはじめました。特に精神的な部分で優勝に大きく影響したと思います。僕たちの仕事も“カクテル道”と言われて、常に高みを目指していく仕事です。大会の時はまさにそうでしたが、これからは日々の営業で、そしてさらに年を重ねおじいさんになっても成長し続ける気持ちを忘れずにいたいです。かと言って、見た目や態度で堅苦しさや厳しさを出すのではなく、あくまでも自然体で。厳しさは心の中だけに持てばいいと思っています。
プロフィール
山﨑 剛(やまさき・つよし)
銀座の名門バーで13年間勤めた後、2018年に独立し「BAR GOYA」をオープン。2007年に第一回シェリー・カクテル・コンペティションでグランプリを、2008年にはベネンシアドール公式称号資格認定試験で最優秀賞を獲得。シェリー界でただひとりの二冠王者となる。2019年、一般社団法人 日本バーテンダー協会主催「第46回全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝に輝くなど、今もっとも注目を集めるバーテンダーのひとり。